天安門事件に声を上げ続ける香港の追悼集会
1978年、中国では鄧小平(とうしょうへい)による経済の自由化が推進されていました。
経済を自由化するためには政治の民主化が必要だと考える学生や知識人が続出しました。
鄧小平は、共産党による独裁に反対する行動や、政治の民主化を訴える行動を厳しく取り締まりました。
1989年4月、民主化に賛成していた胡耀邦(こようほう)元総書記が亡くなったため、彼を追悼するために約50万人の若者が北京の天安門広場に集まりました。
この集会は中国の政治を民主化する運動に発展し、地方へも広がりました。
中国共産党は、この運動を武力で制圧しました。
そして、1989年6月4日、北京市で「天安門事件」という悲劇が起こりました。
この日、少なくとも数百人が射殺されたと言われています。
これを受け、香港で中国共産党への激しい抗議デモが起こりました。
8年後である1997年、香港はイギリスから中国へ返還される予定でした。
それに不安を感じたたくさんの香港市民が、イギリスやカナダなどへ移住をしました。
事件の翌年に始まった天安門事件追悼集会に18万人が参加しました。
その後、毎年の参加者は減少を続け、5万人前後まで減りました。
しかし2003年、香港デモを制限する法律「香港基本法23条」が採決さ
れそうになったことで、その翌年は8万人まで増加しました。
その後も国の動きに応じて人々の抗議やデモは起こりました。
2012年に「国民教育法」により中国の愛国教育導入されそうになったときや、2014年に「雨傘運動」が起こったとき、追悼集会への参加者は増加しました。
そして事件から30年が経過した2019年に「逃亡犯条例」の改正案が可決されようとしたとき、再び18万人が集まりました。
この追悼集会は主に、この事件の恐ろしさや民主主義の重要性を後世に伝えるためのものです。
・参照
A Brief History of Protest in Post-Handover Hong Kong | Time
Hong Kong’s long history of protests – TRT World