
邪馬台国はどこにあった?近畿と九州で有力なのは?
邪馬台国はどこにあったのか?永遠の疑問
邪馬台国がどこにあったかという疑問に、古くは江戸時代から多くの研究者が挑んできましたが、未だに意見を統一できずにいます。
候補地の中には、日本列島ではなく、エジプトやジャワ島といった遥か遠くの海外にあったと主張する人もいるくらいで、論争は盛り上がっています。
その理由の1つは、邪馬台国のことが唯一記されている歴史書である魏志倭人伝(ぎしわじんでん)の記述が曖昧なためです。
その記述の解釈の仕方の違いにより、数多くの候補地が生まれてしまうのです。
とはいえ、現在最も有力な説は2つに絞られています。
それが、近畿説と九州説です。
近畿説のなかでも有力な候補地が纒向遺跡(まきむくいせき)です。
ここで2009年に卑弥呼と同じ時代につくられた宮殿跡と思われる建物群が発見されたことや、遺跡内にある箸墓古墳(はしはかこふん)が卑弥呼と同じ時代につくられたことなどが理由です。
最新の年代測定法による成果の発表が相次いで行われ、この邪馬台国の起源論争は近畿説が一歩していると言えるでしょう。
もっとも最新情報からいえるのは、卑弥呼と同じ時代に、「纒向遺跡」に巨大な権力を持ったクニがあったらしいということです。
しかし、それが邪馬台国そのものだという証拠はまだありません。
一方、もし邪馬台国が九州にあったとすると、どんなことが言えるでしょうか。
邪馬台国の時代の後、現代まで歴史がつながるヤマト政権が誕生したのは現在の近畿地方です。
邪馬台国が近畿地方にあったとすると、ヤマト政権は邪馬台国が発展したものだと考えられます。
しかし、邪馬台国が九州地方にあったとすると、邪馬台国は歴史の中に姿を消した九州の地方国家であったことになります。
するとヤマト政権は邪馬台国とは関係のない人々がつくったか、邪馬台国の勢力が、近畿地方に移動してヤマト政権をつくったと考えなければならなくならます。
邪馬台国の場所を知ることは、日本という国の起源を辿るうえで大問題なのです。
参考 箸墓古墳 - 一般社団法人 桜井市観光協会公式ホームページ