仁徳天皇は何をした人?実在しない?

仁徳天皇は何をした人?実在しない?

邪馬台国卑弥呼の時代が終わると、大和地方(奈良盆地)を中心に近畿地方の豪族たちが集まりヤマト政権と呼ばれる連合政権が成立されます。

この政権のリーダーを大王(おおきみ)といい、後に天皇と呼ばれるようになります。

※その誕生の経緯については諸説があり、真相は謎のままです。

古墳時代と呼ばれる3世紀後半~7世紀頃、日本各地で建設された古墳を調べると、当時のヤマト政権の活躍について知ることが出来ます。

中でも最も有名で有力だったとされる大王が、オオサザキです。

後に仁徳(にんとく)天皇と呼ばれるオオサザキに関する最も有名なエピソードを紹介します。

仁徳天皇が即位して4年目の春(西暦400年頃)、彼は民家のかまどから煙がまったく立っていない様子を見るに、いかに人々が貧しく苦しい生活を強いられているかを知りました。

そして彼は3年間、人々から税金の徴収を停止したのです。

彼自身も倹約家だったといわれ、宮殿が老朽化しても修理せずに使用したそうです。

税の停止から約3年後、民家から煙が立つのが見えるようになったため、家来たちは仁徳天皇に税金の徴収の再開を提案しましたが、彼はしなかったといいます。

また、仁徳天皇は土木工事なども熱心に行ったといいます。

当時、都がヤマト政権発祥の大和地方から大阪平野(河内平野)に移っていました。

しかし、大阪湾沿岸のこの地域には、田畑が少なく、川の氾濫に悩まされることが多かったのです。

そこで仁徳天皇は自ら用水路や堤防、橋の建設に熱心に取り組んだといいます。

これらの素晴らしいエピソードは記紀に記されたものですが、この書物には誇張表現が多く、本当に仁徳天皇の姿を忠実に表したものかどうか疑問視する声も多くあります。

ちなみに当時の中国の文献も無視できません。

中国の記録の中に登場する倭(わ)の五王のうち倭王讃(わおうさん)もしくは倭王珍(わおうちん)という人物がまさに仁徳天皇なのではという説があります。

その一説によると、彼は朝鮮半島での影響力を高めるため、当時大きな勢力を持っていた中国の支持を得ようと、中国に使いを送り、倭国王などの称号を得ていました。

参照
仁徳天皇陵古墳 | 観光スポット・体験 | OSAKA-INFO
仁徳天皇陵古墳|スポット|堺観光ガイド

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