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古事記と日本書紀の違い!日本最古の歴史書「記紀」誕生秘話

古事記と日本書紀の違い!日本最古の歴史書「記紀」誕生秘話 古代日本の歴史書である古事記と日本書紀が作成されたのは、8世紀初め頃でした。 どちらも天武天皇の発案によるもので、2つは総称して記紀と呼ばれます。 記紀が作られた主な理由は、天皇や朝廷が日本を治めることの正当性を一貫して主張するためだと考えられています。 それまで、日本の確からしい過去について記された書物は存在しませんでした。 古事記によれば、天武天皇の頃に帝紀や日辞という記録書がありましたが、どれも多種多様でその内容は有力とは言えませんでした。 そこで天武天皇は列記とした歴史書を作るため、稗田阿礼(ひえだのあれ)という人物に、帝紀や日辞の内容を暗記するよう命じました。 天武天皇は亡くなったことでプロジェクトは一時中断されましたが、西暦711(和銅4年)に再開されました。 当時即位していたのは天武天皇の姪の元明天皇でした。 元明天皇は役人の太安万侶(おおのやすまろ)に、天武天皇が作ろうとしていた歴史書を献上するよう命じました。 太安万侶は稗田阿礼が暗記していた帝紀や旧辞の内容を記述し、西暦712年(和銅5年)に古事記を完成させました。 一方、稗田阿礼だけではなく、川島皇子らも天武天皇に歴史書の作成を命じられていました。 こちらの歴史書は帝紀や旧辞だけでなく、豪族や地方に存在する伝承、朝鮮半島などの海外に関するの資料も参考にされていました。 しかし天武天皇はおろか、川島皇子もこの歴史書を完成させる前に亡くなってしまいました。 その後、この歴史書の作成に天武天皇の皇子だった舎人親王(とねりしんのう)や太安万侶もメンバーとして加わりました。 そうして、ついに古事記の完成から8年後の720年(養老4年)、もう一つの歴史書が完成しました。 日本書紀の誕生です。 ほとんど同じ時代を扱う歴史書が同時期に2つ作られた理由は、それぞれに違う目的があるからだと考えられています。 記紀は天皇や朝廷が日本を治める正統性を主張するために作られたと先ほど述べました。 日本書紀の場合は、特に海外に向けて作られたとされています。 この2つの歴史書には同じ人物(神)やエピソードが多数登場しますが、名前の表記やストーリーにかなりの相違があります。 ※日本神話(古事記)のあらすじについては≫こちらをどうぞ。 ・参照古事記と日本書紀のちがい|なら記紀・万葉 – 奈良県島根県立古代出雲歴史博物館

三種の神器は現在本当にあるのか?

三種の神器はなぜバラバラになった?現在はどこにある? 日本神話における三種の神器とは上の3つのアイテムをさし、これらは皇位の象徴とされます。 その起源は天照大神(アマテラスオオミノカミ)の時代に遡ります。 アマテラスが乱暴者だった弟の素戔嗚尊(スサノオノミコト)に怒り、天の岩戸(アマノイワト)に籠もったことがありました。≫詳しくはこちら: 日本神話(古事記)のあらすじ!わかりやすく解説 どうにか彼女に外に出てきてもらうために他の神々はいろいろと試しました。 そして八咫鏡と八坂瓊曲玉をつくって榊の枝にかけて祈祷したとき、ついに彼女は岩戸から出てきたのです。 残る草薙剣(天叢雲)は、スサノオが出雲で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した際、その尻尾から出現したものです。 アマテラスがニニギノミコトを地上に送る際、これらのアイテムを託されたことで、天皇の象徴となりました。 アマテラスは中でも八咫鏡を『自分だと思って傍に置くように』と告げていたので、後の天皇たちは皆そうしていました。 しかし、第10代崇神天皇は八咫鏡を草薙剣の現物を大和の笠縫邑に祀り、それらの模造品を手元に置くようにしました。 次の第11代垂仁天皇はそれら2つの神器を伊勢神宮へ移し、日本武尊(ヤマトタケル)が遠征に向かうとき、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が彼に草薙剣を授けました。 後に草薙剣は尾張国の熱田神宮に移されました。 気になる八坂瓊曲玉はずっと天皇家が所蔵してきました。 大宝律令では天皇即位の際、八咫鏡と草薙剣は受け継ぐことになっていましたが、八坂瓊曲玉には全く触れられませんでした。 八坂瓊曲玉は即位の直前に内密に渡されていたとする説もあれば、本当は三種ではなく二種の神器だったとする説もあります。 勾玉は先祖の霊が宿るものなので、皇位の象徴である鏡や剣とは別物と扱われることがあります。 その後、八咫鏡は火事で何度も焼かれたため、現在は欠片のみになっているそうです。 他の2つは第81代安徳天皇が壇ノ浦で入水する際、一緒に海に沈んでしまったそうです。 八尺瓊勾玉は無事に引き上げられましたが、草薙剣は見つかりませんでした。 つまり、草薙剣は今も壇ノ浦(山口県下関市)の海に沈んでいるのでしょうか。 ・参照出雲大社伊勢神宮熱田神宮

倭建命と日本武尊の違いは?わかりやすく解説!

倭建命と日本武尊の違いは?わかりやすく解説! これは、それぞれ『古事記』と『日本書紀』でのヤマトタケルの名前の表記です。 実はこの2つの書物では、名前の表記だけでなく、人物設定やエピソードにも大きな違いがあります。 『古事記』の倭建命は勇敢ですが、兄をあっさり殺したり、イズモタケルを平気でだまし討ちしたりするなど、かなり荒ぶる人物として描かれています。 とんでもない行動が多いのは、こちらのほうです。 父の景行天皇はそんな倭建命を恐れ、倭建命は自分を愛してくれない父に不満を持つようになります。 『日本書紀』の日本武尊は、兄は殺さず、景行天皇には忠誠を尽くす優秀な将軍として描かれています。 そして、日本武尊が死ぬと、父は嘆き悲しみます。 こうした違いについて、『古事記』では、基になった伝説の形が比較的残されているのに比べ、『日本書紀』は、国家の正式な歴史書として、天皇中心の視点で伝説を構成し直しているためだと言われています。 ・参照出雲大社

ヤマトタケルは何をした人?

ヤマトタケルは何をした人? 今からおよそ1300年前、現在に残る最も古い歴史書である古事記、そして当時の政権による最初の正式な歴史書である日本書紀が相次いで誕生しました。 現在、これらを合わせて記紀と呼びます。 そこには、ともに天地と神々の誕生に始まる神話の時代から、飛鳥時代のある時期までが記されています。 古事記では第8代推古天皇まで、日本書紀では第41代持統天皇までの日本史が記されています。 現在の研究ではそれらの内容は神話であり、完全にフィクションとされています。 また、実在していなかった架空の人物も数多く登場します。 記紀の登場人物の中で最大の英雄とされるヤマトタケルも実在していなかったとされます。 しかし、彼に代表される古代の日本人の心は、これらの書物により確かに引き継がれています。 ヤマトタケルは、記紀の登場人物の中で最も人気の高い人物の一人です。 彼は故郷である大和に帰りたいと思い続けるも、病により死に、死後に魂が白鳥になって飛んでいったといいます。 実在の人物ではないとされるにも関わらずヤマトタケルの墓と伝わる場所が3カ所も存在していることなどから、彼の多大な人気が伺えます。 そんな悲劇の英雄のヤマトタケルですが、英雄らしからぬ側面も見受けられます。 例えば古事記では、自分の兄であるオオウスノミコを兵器で殺してしまったりしています。 また、伊吹山の神に暴言を吐いて神を怒らせてしまい、自らの命を縮める結果にもなりました。 また、日本書紀では、オトタチバナが入水する原因となった海神の怒りは、ヤマトタケルの海神に対する暴言によるものです。 最も、こういった側面も彼が愛される一因なのかも知れません。 参照出雲大社

小野妹子(おののいもこ)とは何をした人?わかりやすく1分で解説!

小野妹子(おののいもこ)とは何をした人?わかりやすく1分で解説! 隋(ずい)に渡った小野妹子(おののいもこ)は、翌年、隋からの使者である裴世清(はいせいせい)らと共に帰国しました。 難波(現在の大阪)の港で、飾りたてられた30隻の船で彼らは出迎えられ、新築の館に裴世清らは泊まりました。 そして妹子は、推古天皇に『隋からの返書を百済(ペクチェ)で盗まれた』と報告しました。 それを聞いた臣下たちは怒り、妹子を島流しの刑にしようとしましたが、推古天皇のフォローで罪を免れました。 実は返書の内容が倭国(日本)を見下したものだったため、妹子は盗まれたと嘘をついたという説も存在します。 妹子は冠位十二階の第五階でしたが、最終的には最高位の大徳まで出世したと言われています。 参照聖徳宗総本山 法隆寺藤ノ木古墳 | 奈良県歴史文化資源データベース近つ飛鳥博物館

聖徳太子の全盛期のエピソード!彼は何をした?

聖徳太子の全盛期のエピソード!何をした? 失敗に終わった第1回遣隋使を受け、焦った聖徳太子らは、隋を手本にして国の改革に着手しました。 日本書紀によれば、まず冠位十二階を制定し、それまで家柄で決まっていた身分や仕事を個人の能力によって決めるようにしました。 次に十七条の憲法で天皇の命令に従い、まじめに働くよう取り決めました。 こうした改革により、第2回遣隋使では無事、隋に国家として認められました。 これらの改革は結果的に豪族たちの力を弱め、天皇に権力を集中させるものとなりました。 聖徳太子らは、世界に通用する国をつくることを目標に改革を進め、天皇中心の国家という真の目的を実現しようとしたのです。 参照聖徳宗総本山 法隆寺藤ノ木古墳 | 奈良県歴史文化資源データベース近つ飛鳥博物館

聖徳太子の面白い逸話!実は政治に関わっていなかった?

聖徳太子の面白い逸話!実は政治に関わっていなかった? 聖徳太子は、都のあった飛鳥から1㎞も離れた斑鳩(いかるが)に住んでいました。 なぜ、そんなに離れたところに住んだのでしょうか? 一説には、蘇我馬子と仲が悪く、飛鳥から追い出されてしまったというものがあります。 聖徳太子は、実際は政治にほとんど関わっていなかったそうです。 一方、あえて斑鳩の地を選んだのだという説もあります。 斑鳩は交通の要所で、難波に通じる陸上の道と水上の道を押さえることが出来ました。 難波は外国への船が出る港でした。 聖徳太子は、国内の政治よりも海外との関係に関心があったのかもしれません。 参照聖徳宗総本山 法隆寺藤ノ木古墳 | 奈良県歴史文化資源データベース近つ飛鳥博物館

聖徳太子の伝説!子孫は1人も残っていない?

聖徳太子の伝説!子孫は1人も残っていない? 聖徳太子の子孫は1人も残っていないと言われています。 聖徳太子の子である山背大兄王の一族が、蘇我馬子の孫の入鹿(いるか)に滅ぼされてしまいました。 聖徳太子が亡くなり、蘇我氏の力はますます強大になりました。 蘇我入鹿は、次期天皇の有力候補だった山背大兄王を邪魔に感じ始め、斑鳩宮に住む山背大兄王を襲いました。 家臣は兵を集めて戦えば絶対に勝てると申し出ましたが、山背大兄王は自分だけのために民を戦乱で苦しめたくないと言って断り、一族もろとも自殺したと伝えられています。 参照聖徳宗総本山 法隆寺藤ノ木古墳 | 奈良県歴史文化資源データベース近つ飛鳥博物館

聖徳太子は実在した?その証拠とは?

聖徳太子が実在した?その証拠とは? 有名な聖徳太子の肖像画は、もともと奈良の法隆寺に所蔵されていたものです。 しかし、この肖像が本人を描いたという証拠はありません。 なぜなら、画中に本人の名前は書いてありませんし、それが彼の肖像だというのもお寺の伝承に過ぎないからです。 また、あの画は彼の没後100年以上経ってから描かれたものだと推定されています。 もし本物だったとしても、画家が想像で描いたものに過ぎず、本人と似ている可能性は低いでしょう。 そして聖徳太子自体が実在しなかったという説を聞いたことはありませんか? そもそも聖徳太子は生前、その名で呼ばれていませんでした。 聖徳という名が初めて登場したのは彼の没後100年近くに登場した日本書紀などの記録によるもので、生前は主に厩戸王(うまやとおう)と呼ばれていました。 聖徳太子には数々の伝説があります。 しかし、上記もすべて 日本書紀などの朝廷側の記録によるものです。 実際は推古天皇の時代に皇太子制度は確立していませんでした。 また、聖徳太子が摂政となって天皇の代わりに政治を行ったことに異を唱える研究者も多くいます。 つまり、厩戸という聖徳太子のモデルは実在したにせよ、彼は有力な皇族の一人に過ぎず、政治を主導していたわけではなかったという説が、有力になりつつあります。 そもそも聖徳太子は朝廷の実力者が政治的な事情から日本書紀の中で創作した架空の人物に過ぎないとする人さえいます。 参照聖徳宗総本山 法隆寺藤ノ木古墳 | 奈良県歴史文化資源データベース近つ飛鳥博物館

聖徳太子は何をした人?物部氏を滅ぼす戦争にも参加していた!

聖徳太子は何をした人?物部氏を滅ぼす戦争にも参加していた! 538年に仏教が伝わってからというもの、日本ではそれを受け入れるべきかどうか、大きな波紋を呼びました。 そこで仏教受け入れに積極的だったのが、新興勢力の蘇我氏です。 一方、反対派として代表的だったのが、日本古来の神を祀る一族、物部(もののべ)氏でした。 これは単に仏教を受け入れるかどうかの問題だけでなく、どちらの豪族が上かを巡る争いでもありました。 そして587年、蘇我氏が物部氏を滅ぼしました。 このとき若干14歳だった聖徳太子は蘇我氏側で戦いに参加し、活躍したといわれます。 物部氏なき後、蘇我馬子は思い通りに政治を動かすようになりました。 蘇我氏の推薦で即位した崇峻天皇でしたが、いつしか馬子を邪魔に思うようになりました。 危険を感じた馬子は先手を打ち、崇峻天皇を暗殺してしまいました。 参照聖徳宗総本山 法隆寺藤ノ木古墳 | 奈良県歴史文化資源データベース近つ飛鳥博物館