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古墳時代はどんな時代?いつからいつまで?

古墳時代は、3世紀後半に始まりました。 近畿地方や瀬戸内海沿岸を中心に、前方後円墳と呼ばれる古墳が出現したのはこの頃でした。 大きさこそ様々ですが、その多くが同じ設計図でつくられており、全く同じ形をしています。 そして円墳や方墳などの他の種類も増えていきました。 7世紀末頃まで400年以上続いた古墳時代は、これらの古墳の特徴から、前期・中期・後期の3つの時期に分けられます。 古墳時代の間、北は現在の青森県、南は現在の鹿児島県まで、たくさんの古墳がつくられました。 その数は少なくとも10万個以上と言われています。 ヤマト政権の拠点だった大和地方(現在の奈良県辺り)や大阪平野には、比較的大きな前方後円墳が集中して見つかっています。 前方後円墳は最高級の古墳だったとさえ、この地域で散見されるものはヤマト政権の大王の墓だったと言われています。 前方後円墳は全国各地に点在しますが、遠方の王たちはヤマト政権から許可を得ることで、前方後円墳をつくることができたのです。 このことから、前方後円墳が存在する地域はヤマト政権の支配下にあったと推測できます。 ただし、前方後円墳がある全ての地域がヤマト政権の支配下にあったわけではありません。 例えば吉備国(現在の岡山県)や上毛野国(現在の群馬県)などでは、5世紀に大王の墓に匹敵する大きさの前方後円墳がつくられました。 つまり、これらの地域は5世紀の段階ではヤマト政権に支配されているわけではなく、対等に近い関係だったと考えられます。 6世紀以降、ほとんどの巨大な前方後円墳は大王の墓となっていることから、ヤマト政権が力を徐々に拡大していったことが判ります。 7世紀頃から前方後円墳はつくられなくなり、8世紀には古墳自体がつくられなくなりました。 こうして古墳時代が終わった理由として、日本に仏教が伝来したことで死者を弔う方法が変化したことが挙げられます。 また、645年に中大兄皇子らが行った大化の改新の時期に、死者を弔う際の手間を省く旨の司令が出されたせいだとも言われています。 ・参照埼玉県立さきたま史跡の博物館かみつけの里博物館 | 高崎市西都原古墳群 | 西都市観光協会

【永久保存版】日本史スーパー年表

【永久保存版】日本史スーパー年表 ①【旧石器~古墳時代】②【飛鳥時代】③【奈良時代】④【平安時代】⑤【鎌倉時代】⑥【南北朝・室町時代】⑦【安土・桃山時代】⑧【江戸時代】⑨【明治時代】⑩【大正時代】11【昭和時代】 【旧石器時代】 ・約4万〜3万年前マンモスやオオツノジカを求め、日本列島に人類が上陸。 ・約3万2千年前現在、日本で骨が発見された中で最古の人々「山下町洞人」が現沖縄県で栄える。 ・約2万4千年前岩宿(現群馬県)で旧石器時代人が栄える。 ・約1万8千年前現静岡県で浜北人、沖縄県で港川人が栄える。 【縄文時代】 ・約1万2千〜3千年前氷河期が終わり、海水面が上がる。多くの大型哺乳類が絶滅。縄文時代の到来。 ・約9千年前犬を連れた狩猟が行われるようになる。 ・約6千年前縄文海進(海水面の高さが最大になる。) ・約5千年前三内丸山(現青森県)のような巨大集落や、加曽利(現千葉県)のような巨大貝塚が作られる。火焔型土器や土偶が発明される。 ・約3500年前米作りが始まる。 【弥生時代】 ・約2400年前水田による高度な米作りが始まる。弥生時代到来。 ・約2200年前西日本で高床式建造物の集落が誕生する。 ・約2000年前日本には約100個のクニが存在した。 ・57年倭の奴国王が後漢に遣いを送り、漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)から金印を授かる。 ・107年倭国王の帥升(すいしょう)が後漢に遣いを送り、生口(せいごう)という160人の奴隷を渡す。 ・150年〜180年ごろ国内のクニ同士が盛んに争う倭国の大乱の時代最終的に卑弥呼が王となる。 ・239年卑弥呼は難升米(なしめ)らのつかいを朝鮮半島にあった魏の拠点(帯方郡)に送る。卑弥呼は魏の明帝から親魏倭王(しんぎわおう)に任命され、金印など100の財宝を授かる。 ・248年卑弥呼没後、男性の王が国を治めようとしたが上手くいかず、卑弥呼の血縁にあたる壹与(いよ)という13歳の少女が王となる。 【古墳時代】 ・300〜400年頃ヤマト政権が誕生 ・391年倭国の軍が百済・新羅(朝鮮半島)に侵攻する。 ・400〜404年朝鮮半島にいた倭国の軍が高句麗に敗れる。 ・421年倭王讃(賛)が宋に遣いを送る。 ・438年倭王珍(弥)が宋に遣いを送る。珍は宋から安東将軍倭国王(あんとうしょうぐんわこくおう)の称号を授かる。 ・462年倭王興も宋から安東将軍倭国王と認められる。 ・478年倭王武(雄略天皇)が宋(後の斉)に遣いを送る。 ・479年倭王武が斉から鎮東大将軍と認められる。 ・502年倭王武が梁から征東将軍と認められる。 ・507年継体天皇即位 ・512年朝鮮半島南部の一部拠点を百済に渡す。 ・527〜28年北九州で筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわいのらん)の乱が起こる。 ・538年百済から仏教が伝来。 ・554年倭国と百済の軍が新羅と戦う。 ・562年かつて朝鮮半島南部にあった拠点が新羅に奪われる。 ・574年聖徳太子誕生 ・587年蘇我馬子(そがのうまこ)が崇峻天皇(すしゅんてんのう)を暗殺する。 ・592年初の女性天皇の推古天皇即位 ≫次ページ【飛鳥時代以降の年表】

仁徳天皇は何をした人?実在しない?

仁徳天皇は何をした人?実在しない? 邪馬台国や卑弥呼の時代が終わると、大和地方(奈良盆地)を中心に近畿地方の豪族たちが集まりヤマト政権と呼ばれる連合政権が成立されます。 この政権のリーダーを大王(おおきみ)といい、後に天皇と呼ばれるようになります。 ※その誕生の経緯については諸説があり、真相は謎のままです。 古墳時代と呼ばれる3世紀後半~7世紀頃、日本各地で建設された古墳を調べると、当時のヤマト政権の活躍について知ることが出来ます。 中でも最も有名で有力だったとされる大王が、オオサザキです。 後に仁徳(にんとく)天皇と呼ばれるオオサザキに関する最も有名なエピソードを紹介します。 仁徳天皇が即位して4年目の春(西暦400年頃)、彼は民家のかまどから煙がまったく立っていない様子を見るに、いかに人々が貧しく苦しい生活を強いられているかを知りました。 そして彼は3年間、人々から税金の徴収を停止したのです。 彼自身も倹約家だったといわれ、宮殿が老朽化しても修理せずに使用したそうです。 税の停止から約3年後、民家から煙が立つのが見えるようになったため、家来たちは仁徳天皇に税金の徴収の再開を提案しましたが、彼はしなかったといいます。 また、仁徳天皇は土木工事なども熱心に行ったといいます。 当時、都がヤマト政権発祥の大和地方から大阪平野(河内平野)に移っていました。 しかし、大阪湾沿岸のこの地域には、田畑が少なく、川の氾濫に悩まされることが多かったのです。 そこで仁徳天皇は自ら用水路や堤防、橋の建設に熱心に取り組んだといいます。 これらの素晴らしいエピソードは記紀に記されたものですが、この書物には誇張表現が多く、本当に仁徳天皇の姿を忠実に表したものかどうか疑問視する声も多くあります。 ちなみに当時の中国の文献も無視できません。 中国の記録の中に登場する倭(わ)の五王のうち倭王讃(わおうさん)もしくは倭王珍(わおうちん)という人物がまさに仁徳天皇なのではという説があります。 その一説によると、彼は朝鮮半島での影響力を高めるため、当時大きな勢力を持っていた中国の支持を得ようと、中国に使いを送り、倭国王などの称号を得ていました。 ・参照仁徳天皇陵古墳 | 観光スポット・体験 | OSAKA-INFO仁徳天皇陵古墳|スポット|堺観光ガイド

仁徳天皇の在位期間の謎!歴代最長の天皇は?

第16代天皇、仁徳(にんとく)天皇の在位期間には、さまざまな説があります。 ※崩御とは天皇・皇后・皇太后・太皇太后が死ぬこと およそ信じられない説までもが、まことしやかに語られています。 まず最も在位が長かったのは、第6代、孝安天皇の102年です。 次いで長いのが第11代、垂仁天皇の99年です。 しかし、彼らは神話時代の人物であり、これらはあまり信憑性のある数字ではありません。 こうした疑問を取り払って考えると、最も在位期間が長かったのは昭和天皇の64年なのです。 そして明治天皇の46年、光格天皇(江戸時代)の39年と続きます。 逆に最も短かったのは、仲恭天皇(鎌倉時代)の80日です。 仲恭天皇は鎌倉幕府に反乱を起こした後鳥羽上皇と共に罪に問われ、すぐに退位させられました。 ついでに最高齢と最年少の即位についても紹介しておきます。 第12代の景行天皇(ヤマトタケルの父)の84歳が歴代最高齢です。 しかし、彼も神話時代の人物であり、性格な数値として疑問視する声も多いです。 彼を除くとなると、最高齢は光仁天皇の62歳です。 歴代最年少即した天皇は二人おり、なんとその年齢は2歳です。 六条天皇と四条天皇です。 平安時代末期に即位した六条天皇は、父の二条天皇が病弱だったため2歳での即位となりました。 鎌倉時代に即位した四条天皇も当時2歳でしたが、若干12歳で事故により崩御しました。 ちなみに最長寿の天皇は昭和天皇の87歳で、後水尾(ごみずのお)天皇(江戸時代)の85歳、陽成天皇(平安時代)の82歳と続きます。 ・参照仁徳天皇陵古墳 | 観光スポット・体験 | OSAKA-INFO仁徳天皇陵古墳|スポット|堺観光ガイド

仁徳天皇陵は誰の墓?調査しない理由

仁徳天皇陵は誰の墓?調査しない理由 大阪府堺市にある大仙陵古墳は仁徳天皇古墳や仁徳天皇陵とも呼ばれ、宮内庁により仁徳天皇の墓だと指定されています。 しかし、この古墳が建てられた時期が仁徳天皇の在位期間と合わないとする説があり、かなり疑問視されています。 その規模からして大王の古墳、それも倭の五王のうちの誰かのものであることは間違いないにせよ、果たして仁徳天皇のものだと言えるのでしょうか。 というのも、天皇陵(天皇の墓)と称される古墳は、明治時代に古い文献などをもとに指定されたものなのです。 それ故その根拠は信憑性に欠いており、指定の背景を疑問視する声は絶えません。 この謎を払拭するためにはひたすら発掘調査をする以外にありませんが、現在、大仙陵古墳などの天皇陵への立ち入りは厳しく規制されており、墳丘本体の発掘調査は許されていません。 ・参照仁徳天皇陵古墳 | 観光スポット・体験 | OSAKA-INFO仁徳天皇陵古墳|スポット|堺観光ガイド

日本神話、古事記のあらすじをわかりやすく解説!

以下は日本神話(古事記)による、ヤマト政権の誕生までの概要です。 ①天地誕生 天地の初め、天上界(高天原、たかまがはら)に、3柱の神が現れました。 その後、神世七代(かみのよななよ)と呼ばれる神々が現れ、その最後に現れたのがイザナギとイザナミです。 神々はイザナキ・イザナミに天沼矛(あめのぬぼこ)という一本の矛を与え、国を造るよう命じました。 ≫次ページ: ②国産み

古事記と日本書紀の違い!日本最古の歴史書「記紀」誕生秘話

古事記と日本書紀の違い!日本最古の歴史書「記紀」誕生秘話 古代日本の歴史書である古事記と日本書紀が作成されたのは、8世紀初め頃でした。 どちらも天武天皇の発案によるもので、2つは総称して記紀と呼ばれます。 記紀が作られた主な理由は、天皇や朝廷が日本を治めることの正当性を一貫して主張するためだと考えられています。 それまで、日本の確からしい過去について記された書物は存在しませんでした。 古事記によれば、天武天皇の頃に帝紀や日辞という記録書がありましたが、どれも多種多様でその内容は有力とは言えませんでした。 そこで天武天皇は列記とした歴史書を作るため、稗田阿礼(ひえだのあれ)という人物に、帝紀や日辞の内容を暗記するよう命じました。 天武天皇は亡くなったことでプロジェクトは一時中断されましたが、西暦711(和銅4年)に再開されました。 当時即位していたのは天武天皇の姪の元明天皇でした。 元明天皇は役人の太安万侶(おおのやすまろ)に、天武天皇が作ろうとしていた歴史書を献上するよう命じました。 太安万侶は稗田阿礼が暗記していた帝紀や旧辞の内容を記述し、西暦712年(和銅5年)に古事記を完成させました。 一方、稗田阿礼だけではなく、川島皇子らも天武天皇に歴史書の作成を命じられていました。 こちらの歴史書は帝紀や旧辞だけでなく、豪族や地方に存在する伝承、朝鮮半島などの海外に関するの資料も参考にされていました。 しかし天武天皇はおろか、川島皇子もこの歴史書を完成させる前に亡くなってしまいました。 その後、この歴史書の作成に天武天皇の皇子だった舎人親王(とねりしんのう)や太安万侶もメンバーとして加わりました。 そうして、ついに古事記の完成から8年後の720年(養老4年)、もう一つの歴史書が完成しました。 日本書紀の誕生です。 ほとんど同じ時代を扱う歴史書が同時期に2つ作られた理由は、それぞれに違う目的があるからだと考えられています。 記紀は天皇や朝廷が日本を治める正統性を主張するために作られたと先ほど述べました。 日本書紀の場合は、特に海外に向けて作られたとされています。 この2つの歴史書には同じ人物(神)やエピソードが多数登場しますが、名前の表記やストーリーにかなりの相違があります。 ※日本神話(古事記)のあらすじについては≫こちらをどうぞ。 ・参照古事記と日本書紀のちがい|なら記紀・万葉 – 奈良県島根県立古代出雲歴史博物館

三種の神器は現在本当にあるのか?

三種の神器はなぜバラバラになった?現在はどこにある? 日本神話における三種の神器とは上の3つのアイテムをさし、これらは皇位の象徴とされます。 その起源は天照大神(アマテラスオオミノカミ)の時代に遡ります。 アマテラスが乱暴者だった弟の素戔嗚尊(スサノオノミコト)に怒り、天の岩戸(アマノイワト)に籠もったことがありました。≫詳しくはこちら: 日本神話(古事記)のあらすじ!わかりやすく解説 どうにか彼女に外に出てきてもらうために他の神々はいろいろと試しました。 そして八咫鏡と八坂瓊曲玉をつくって榊の枝にかけて祈祷したとき、ついに彼女は岩戸から出てきたのです。 残る草薙剣(天叢雲)は、スサノオが出雲で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した際、その尻尾から出現したものです。 アマテラスがニニギノミコトを地上に送る際、これらのアイテムを託されたことで、天皇の象徴となりました。 アマテラスは中でも八咫鏡を『自分だと思って傍に置くように』と告げていたので、後の天皇たちは皆そうしていました。 しかし、第10代崇神天皇は八咫鏡を草薙剣の現物を大和の笠縫邑に祀り、それらの模造品を手元に置くようにしました。 次の第11代垂仁天皇はそれら2つの神器を伊勢神宮へ移し、日本武尊(ヤマトタケル)が遠征に向かうとき、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が彼に草薙剣を授けました。 後に草薙剣は尾張国の熱田神宮に移されました。 気になる八坂瓊曲玉はずっと天皇家が所蔵してきました。 大宝律令では天皇即位の際、八咫鏡と草薙剣は受け継ぐことになっていましたが、八坂瓊曲玉には全く触れられませんでした。 八坂瓊曲玉は即位の直前に内密に渡されていたとする説もあれば、本当は三種ではなく二種の神器だったとする説もあります。 勾玉は先祖の霊が宿るものなので、皇位の象徴である鏡や剣とは別物と扱われることがあります。 その後、八咫鏡は火事で何度も焼かれたため、現在は欠片のみになっているそうです。 他の2つは第81代安徳天皇が壇ノ浦で入水する際、一緒に海に沈んでしまったそうです。 八尺瓊勾玉は無事に引き上げられましたが、草薙剣は見つかりませんでした。 つまり、草薙剣は今も壇ノ浦(山口県下関市)の海に沈んでいるのでしょうか。 ・参照出雲大社伊勢神宮熱田神宮

倭建命と日本武尊の違いは?わかりやすく解説!

倭建命と日本武尊の違いは?わかりやすく解説! これは、それぞれ『古事記』と『日本書紀』でのヤマトタケルの名前の表記です。 実はこの2つの書物では、名前の表記だけでなく、人物設定やエピソードにも大きな違いがあります。 『古事記』の倭建命は勇敢ですが、兄をあっさり殺したり、イズモタケルを平気でだまし討ちしたりするなど、かなり荒ぶる人物として描かれています。 とんでもない行動が多いのは、こちらのほうです。 父の景行天皇はそんな倭建命を恐れ、倭建命は自分を愛してくれない父に不満を持つようになります。 『日本書紀』の日本武尊は、兄は殺さず、景行天皇には忠誠を尽くす優秀な将軍として描かれています。 そして、日本武尊が死ぬと、父は嘆き悲しみます。 こうした違いについて、『古事記』では、基になった伝説の形が比較的残されているのに比べ、『日本書紀』は、国家の正式な歴史書として、天皇中心の視点で伝説を構成し直しているためだと言われています。 ・参照出雲大社

ヤマトタケルは何をした人?

ヤマトタケルは何をした人? 今からおよそ1300年前、現在に残る最も古い歴史書である古事記、そして当時の政権による最初の正式な歴史書である日本書紀が相次いで誕生しました。 現在、これらを合わせて記紀と呼びます。 そこには、ともに天地と神々の誕生に始まる神話の時代から、飛鳥時代のある時期までが記されています。 古事記では第8代推古天皇まで、日本書紀では第41代持統天皇までの日本史が記されています。 現在の研究ではそれらの内容は神話であり、完全にフィクションとされています。 また、実在していなかった架空の人物も数多く登場します。 記紀の登場人物の中で最大の英雄とされるヤマトタケルも実在していなかったとされます。 しかし、彼に代表される古代の日本人の心は、これらの書物により確かに引き継がれています。 ヤマトタケルは、記紀の登場人物の中で最も人気の高い人物の一人です。 彼は故郷である大和に帰りたいと思い続けるも、病により死に、死後に魂が白鳥になって飛んでいったといいます。 実在の人物ではないとされるにも関わらずヤマトタケルの墓と伝わる場所が3カ所も存在していることなどから、彼の多大な人気が伺えます。 そんな悲劇の英雄のヤマトタケルですが、英雄らしからぬ側面も見受けられます。 例えば古事記では、自分の兄であるオオウスノミコを兵器で殺してしまったりしています。 また、伊吹山の神に暴言を吐いて神を怒らせてしまい、自らの命を縮める結果にもなりました。 また、日本書紀では、オトタチバナが入水する原因となった海神の怒りは、ヤマトタケルの海神に対する暴言によるものです。 最も、こういった側面も彼が愛される一因なのかも知れません。 参照出雲大社