ヤマト政権におけるワカタケル大王は最初から有力ではなかった

大王の隆盛は5世紀後半以降

稲荷山古墳の鉄剣や江田船山古墳の刀の銘文には、『天下を治めるワカタケル大王(おおきみ)』という意味の言葉が書かれています。

最初の頃のヤマト政権では、大王はあくまで豪族たちのリーダー役に過ぎず、天下を治める大王様と言える程の絶対的な力は持ちませんでした。

それどころか、大王に匹敵する力をもつ有力豪族たちが中央にも地方にも存在しました。

実際に大王の力が強まっていったのは5世紀後半以降、特にワカタケル大王の時代です。

古事記などによると、ワカタケル大王はそれら有力豪族を制圧し、大王の力を強化、地方への支配力も強めていったようです。

江田船山古墳の大刀や、稲荷山古墳の鉄剣の持ち主がともにワカタケル大王に仕えた人物であることから、その影響力は、少なくとも大和地方を中心に北九州から関東北部にまで及んだと考えられています。

しかしワカタケル大王の死を境目に、大王の力はいたん弱まっていきました。

参考 稲荷山古墳 - 埼玉県立さきたま史跡の博物館

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