邪馬台国論争に決着はつくのか?有力な纏向遺跡とは
邪馬台国論争に決着はつくのか?有力な纏向遺跡とは
卑弥呼が支配した邪馬台国が日本のどこにあったのか、という論争は江戸時代から続いており、未だ決着していません。
邪馬台国について記された唯一の中国の書物である魏志倭人伝に、 中国大陸から邪馬台国に人々が辿り着いた道程が明記されていないからです。
それでも本書の記述に従うと、 邪馬台国の位置は日本列島を越え、海上ということになってしまうのです。
そのため、以下のように実に様々な地域に存在したとする説が浮上しました。
- ハワイ
- ジャワ島
- スマトラ島
- 沖縄
しかし、あくまで国内に存在したとする説が有力であり、中でも特に確からしいのが、奈良県桜井市にある纏向遺跡(まきむくいせき)です。
纒向遺跡には、卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳(はしかこふん)を始め、邪馬台国が存在した3世紀後半の初期古墳が集中しています。
また、同じ時期の建物跡からは九州や関東地方など各地域の土器が出土しているのです。
農具ではなく建設に使われたと思われる工具がたくさん出土しているため、農村というよりは計画的に造られた都市だったとされます。
近くの天理市にある黒塚古墳からは、33枚の三角縁神獣鏡が出土しています。
これは魏の皇帝が卑弥呼に与えた鏡とされ、 邪馬台国が纒向遺跡にあったとする説をより強固にしています。
2007年、纒向遺跡からベニバナ花粉が発見されました。
ベニバナは当時の日本に自生しない植物で、纏向遺跡で見つかった花粉は中国から持ち込まれたものだと考えられます。
卑弥呼は魏の皇帝に赤と青で染めた絹織物を献上したと言われていますが、纏向でベニバナが発見されたことで、赤色はここでベニバナにより染められたものである可能性が出てきたのです。
このように、新たな説やその裏付けはどんどん見つかりますが、果たして邪馬台国の位置がはっきりと定まる日は来るのでしょうか。
参照
横浜市歴史博物館
吉野ヶ里歴史公園
大阪府立弥生文化博物館