日本の公開処刑の歴史!塩漬けの死体の前に野次馬が殺到?
公開処刑は庶民の娯楽だった
歴史的に見れば、罪人の処刑は、見せしめのために公衆の面前で執行されるのが通例でした。
そこには、犯罪の抑止効果を図る目的もあったのでしょう。
しかし、処刑を目の当たりにした庶民が震え上がっていたかといえば、そんなことはありません。
むしろ彼らは処刑を一種の見世物として楽しんでいたようです。
実際、公開処刑の知らせがあると人々は刑場に殺到しました。
広島県史によるの1777年の記録では『死刑執行の際に見物人が群がって、警備の役人の指図に従わない』という旨の記述が見られます。
そのため、刑場で騒ぐことを戒める触書を出す藩もあったといいます。
無名の罪人の処刑でさえ大挙して庶民が押し寄せるので、名の通った人物の死刑執行ともなれば、刑場は上を下への大騒ぎになりました。
例えば、1837年に幕府に反乱を起こした大塩平八郎の処刑では、平八郎がすでに塩漬けの死体となっていたにも関わらず、刑場は野次馬でごった返し、多くの怪我人まで出る始末であったといいます。
罪人の中には肝の据わった者もおり、処刑前に浄瑠璃の一節を唸ったり、大音声で狂歌を詠んだりして見物人を感嘆させたと言われます。
参考 第陸章 大塩平八郎…一日半の反乱者、四〇日の潜伏の果てに