
宮本武蔵は実は卑怯者で煽りのプロだった?
実は卑怯者だった宮本武蔵
「二刀流」を完成させたことで有名な宮本武蔵は多くの小説や映画などで取り上げられ、現在でも人気が高い人物です。
一流の剣豪として描かれることが多いですが、記録に残る実際の武蔵は、勝つために手段を選ばない狡猾な人物だったことをご存知ですか?
例えば、1604年に京都で最強とされていた吉岡一門の当主清十郎に勝負を挑んだときのことです。
武蔵は決められた時刻にわざと遅れ、相手のイラ立ちを誘って勝つという策士ぶりを見せました。
続く清十郎の弟の伝七郎との戦いでも、同じ方法で勝ちを収めます。
これに激怒した吉岡一門は、100人にも上る門弟を揃え、鉄砲や弓といった飛び道具も準備しましたが、これを知った武蔵は、敵の現れるのを木陰で待ち伏せる作戦に出ました。
そして門弟が揃ったのを見届けると、真っ先にまだ少年だった清十郎の息子又十郎を斬り捨て、さっさと逃走しました。
また、佐々木小次郎との戦いで有名な 「巌流島の決闘」でも、武蔵は約2時間遅れで到着し、佐々木小次郎の憤慨を促しました。
しかも、「遅いぞ武蔵!」と叫んだ小次郎に対して「小次郎敗れたり!」と勝利宣言をしました。
この行動に小次郎は冷静さを忘れ、あえなく武蔵の木刀で脳天を叩き割られたのでした。
遅参法に奇襲法、そして挑発で相手の感情を煽ることで連勝を遂げた武蔵のやり方から、二刀流なんて「こけおどし」だとする説もありますが、勝ちにこだわる武蔵なら、それぐらいやっても不思議ではありません。
参考 巌流島|武蔵・小次郎